その496 鹿、牛、寅 2020.1.29

2020/01/29

 曇り模様のある日、越知町から仁淀川町、津野町あたりへと車を走らせた。
まずは越知町にできた「川の駅」に立ち寄る。
地元の産物を加工した物や牧野富太郎博士関連の書物もあるが、
アウトドアで使うカトラリーなども売っている。
ジビエ肉もあって、鹿肉ジャーキー、鹿肉フリカケがあった。
フリカケおいしそう、買っていこうかと思ったら「犬猫用」でした。
 
 仁淀川町から津野町へは国道439号線を南下するが、道は一部が曲がりくねっている。
道路わきに突然、牛の姿が見えて驚く。
牧場ではないが、牛舎と牛の運動場のような広場があって、
ほとんどの牛は彫像のように動かない。
好奇心の強い牛が一頭寄ってきて、柵から顔を出す。
大きな顔は迫力があって、ちょっとおっかない。
離れて見ていたが動物園で見るキリンや象とはまた別の体温と湿度を感じる。
 
 津野町芳生野に入ると、「吉村寅太郎生家」という案内が見えた。
梼原町には幕末の志士関連の公園や史跡が多いが、
このロケーションは知る人ぞ知るという感じ。
復元されたかやぶき屋根の生家には、
寅太郎が愛用したという兜や書簡がきれいに展示されている。
堺市から来たという歴史好きの人たちが6,7人、高知のガイドさんと一緒にやってきた。
お茶のサービスもありなかなか良い雰囲気。
 
 寅太郎が首領であった「天誅組」はこの生家では「天忠組」と書かれていた。
司馬遼太郎の短編小説に「おお大砲」というのがあったことを思い出した。
徳川家から下賜された大砲を何代にもわたって守ってきた家々が、
大砲で天誅組の乱を鎮めよとの命を受ける。
秘伝の技として伝えられてきた大砲の操作方法や火薬の調合は、
役に立たない空虚な言い伝えと化していた。
新しい蘭学の知識で火薬を調合し、操作法を研究した大砲のみが
大玉を発射することができたという。
しかし当時の、さらに古い時代の大砲は鉄の球が飛んで行くだけで
爆発しないものであり、人々を大音響で驚かせたにとどまった。
こんな話だったと思う。
 
 生家の天井にある、十字に交差する太くて黒い梁は、
寅太郎の姉が嫁いだ先の家から寄贈されて移したものという。
寅太郎は天保年間(1830~1843年)の生まれ。
黒い梁がいつ頃の木材かわからないが、200年近い時を経たものであろう。
梁を支える新しい柱とは全く重みが違って見える。
木材も漆喰の壁も、いつかは朽ちてひび割れてしまうものだが、
大切にされてきた古いものには沁み込んだ歴史を感じる。
 
以上、鹿、牛、寅の話でした。